窓枠のガムテープはがしにお酢を使ってみました

こんにちは。

小山内藤花です。

 

こちら関西圏では台風一過、完全に秋の空気です。

既に窓枠が結露していて、窓を開けると寒いくらいでした。

 

さて、今回の台風は相当危険なものだという報道でしたので、

窓に段ボールを、ガムテープでとめました。

 

アパートなので、跡が残ったら嫌だなあと思いつつ、

はがし跡が残らないような方法を、一応軽く調べてから、

命の方が大事だ……!!

と意を決してえいやあっとはっつけたわけです。

……割れそうな部分を、ちょこっとだけ。

 

 

そして朝、どんな具合かとガムテープをはがすと、

ああ、やっぱり、こうなるのね……

見事に跡が残りました。

 

ですので、調べてみて、家の中のもので使えそうなもので、

テープの後処理をすることに……

 

使ったのはお酢です。

ティッシュペーパーをお酢に浸して窓枠にべったりと貼り付け、

その上からラップで乾燥しないようにする。

 

そしてそのまま10~20分……ですが、長時間であればあるほど良いとか……

その後は普通にふき取ればよいそうです。

 

なのでそのまま買い物に行き、昼ご飯を食べ、ナップをとってから、

結果を見ることになりました。

(忘れていたわけではありません…………ありません)

 

 

さあさ、待望のご対面、

お酢パワーで粘着成分はいかほどに、いかほどに?

 

 

………………

…………

……

全然ダメでした。

 

いえ、箸にも棒にも掛からぬほどではありませんでした。

一応、窓枠にへばりついて硬くなっていた粘着成分は、ゆるゆるに柔らかくなっていていました。

指でつまめるのですが、そのにちゃにちゃ具合が何とも言えず気持ち悪いです。

「あ、これ知ってる、これ知ってるぅ……!」

と、どこかで触ったことのあるような感触だろうと思います。

 

 

自分の場合、

小学生の時、お小遣いを出してまででわざわざ買おうとは思わなかったけれど、やっぱり欲しかった練り消しを、消しかすを使って自作した際に、水を加えたせいでにちゃにちゃになった……という記憶がよみがえりました。

 

 

しかしその柔らかさは表面的なもの、

硬い部分もしっかりと残っていて、それのしつこいこと……

 

結局こすらざるを得ませんでした。

そして硬く絞った雑巾でこすってもそれは取れないときた。

ならばと、貼り付けてあったお酢を吸ったティッシュでやってみると、

なんとか粘着成分がじわじわとはがれていく模様……。

それでも窓をがたがたいわせ、お酢臭い右手の筋肉が悲鳴を上げるまでこすり続けなければなりませんでしたが……。

 

ちなみに乾いたティッシュでやると地獄を見ます。

あかぎれや傷がある人も地獄を見ます。

 

そうこうしている内に1時間弱たって、

ようやく見た目には分かりづらい程度になりました。

 

つるつるの表面を見るとちょっとした達成感も沸いてくるものですが、

それ以上に疲労感が押し寄せてきて、しばらくは座ったままどことも知れぬ空中をうつろな目で見るはめになりました。

 

今度やる時は別の手段を講じてみようかと思います。

 

 

ここまで読んでくださってありがとうございました。

FX反省 10/7~10/11

GBP/USD 2019/10/7~10/11

 

大惨敗

-140pips

 

エントリー根拠

・週明けギャップダウン

→下方向の勢いある?

・120EMA,120SMAデッドクロス

・120MAに対してグランビルが効いてくる

・トリプルトップ(?)のネックラインに対するリテスト、からの切り上げライン抜け

・日足レベルでのトレンドの継続かと考えた

 

 

反省

・日足レベルではダブルボトム~切り下げライン抜け~ネックラインに対するリテスト、ラス戻りにも届いている(?)

→ダウントレンド終わりか

・4時間足レベルでは、特にトリプルトップというわけでもなかった??

(高値切り上がりが鈍い→フラッグの形成??~フラッグ底へのリテストだったか??)

 

子どもの時にこそ教えてほしかったこと

とりとめもないこと。

 

学校ではある程度の教養を身に着けさせてくれるが、

勉強法は教えてくれなかった。

 

当たり前すぎて教えてくれないのか、

教える側も知らないのか、

全ての国民に対して同じ水準の教育サービスを提供することが難しすぎるのか、

そんなもの、周りの人間から当たり前のように学び取れるだろう、と楽観視されているのか、

 

社会に出てからの方が長い人生を歩む中で、必ず役に立つはずの、

お金についてのリテラシーや、

コミュニケーションの技術、

心の整え方なんかも教えてはくれなかった。

 

結局のところ、

様々な形で死ぬまで学びは続くのだけれど、

もうちょっと、社会に出るまでに学ぶことができる器を整えることができてもよかったなあ、と思う。

 

 

学校でも、塾でも、家庭でも、それ以外でもなんでもいいから、

そういうことをきちんと教えてくれる場が、せめて義務教育を供給しているくらいの多くの人に与えられていたらなあ、と思う。

 

 

せめてコミュニケーションの技術だけでも……

そうすれば、学校という不条理な人間関係の中に放り込まれたとしても、

今よりかはましなんじゃないかと思う。

 

勉強そっちのけでやりたいことを謳歌して、

働かないと食っていけないからという理由でなんとなく就職し、

飲み会とか趣味とかを日々の楽しみにしているような人生だとしても、

なんだかんだで人間がかかわってくるから、

それが自転車に乗る技術のように身に着いていたら、

ちょっとは楽になるんじゃないかと思う。

 

そう思いたい。

お芝居への感受性

昨日、演劇を観た。

 

音楽劇でだったのだけれど、なかなか面白く観れた。

 

けれど、このごろ思うのは、

自分の感受性が子ども頃よりも鈍麻したのかなあ、、、ということ。

いや、いまも子どもみたいなものなんだけど。ね。

 

昔、音楽の授業でシューベルトの『魔王』や、

ムソルグスキー作、ラヴェル編の『展覧会の絵』の中の「小人」という曲を聞いたときは、

夜、シャワー浴びてるときに目をつぶるのが怖くなった。

 

芸術鑑賞会といって年に一度演劇や映画を見る会が小学校でも中学校でもあって、

小学校の時に観た音楽劇(『走れメロス』?だったと思う)では、周りがへらへらしている中で一人涙ぐんでいたし、

中学校の時に観た映画『青い鳥』(阿部寛主演の)では、ボロボロ泣いていた。

 

 

今も一人でアニメ見てるときに泣いていたりすることもあるけれど、

演劇に関してはそんなに泣くことは少なくなってきている。

 

高校時代に演劇部に所属していて、

お話の筋以外の点にも意識が分散してしまうためだろうか、

それとも、ひねたものの見方が身についてしまったためだろうか、

はたまた別の理由によるものだろうか、

 

なんであれ、少し残念。

 

昨日、

劇世界に没頭している最中に、

ふと演技している役者さんが、

芝居がかって見えた。

 

いや、芝居なのだから芝居がかっていて当然なのだけれども、

外国の、かつ時代も違う作品で、「それらしい」話し方が当然なのだけれども、

どうしても途中で、ふっと劇世界との間に距離ができてしまう瞬間が幾度もあった。

 

昔は訳も分からずに観ていたけれど、それなりに心動かされた。

今は自分がどのように感じたのか、またどのように鑑賞できるのか、ほんの少しずつ言葉にできるようになってきてはいるが、以前のような衝撃的なものは少なくなってきているような感じがある。

 

救いとしては、まだ観劇後の余韻に浸ることができていること。

歩きながら、電車に揺られながら、観てきたばかりの芝居のことを思い出し、考えることができていること。

 

これすらなくなったら、寂しいと思う。

腕組み

腕組みしている人があんまり好きではない。

 

好きではない、というより、苦手。

 

自らに自信を持っているのは結構です。

ただ、他を威圧するような感じにひるんでしまう。

 

自己規範から逸脱する人に対する非寛容。

外交的で仲間に対しては明るく振る舞い、

男性的で豪快、闊達、活き活きとした頼りがいのあるカッコいい印象が見受けられる一方で、

ただ厳しいというだけというのとも異なる、

自己の正当性を疑わない、共感力の薄い感じすらもある。

 

 

また別の堂々とした腕組みは、

自分の主義主張を守るため、堂々とした態度が高じて攻撃的にすらなった感じ。

思慮深く、共感力も十分あるけれど、

周囲の声から自分と境遇や理念などを同じくする者らの声なき声を拾い上げ、

世に認知してもらうために、徹底的に抗戦する姿。

 

そうならざるを得ない世が見え隠れして、

何とはなしにげんなりしてしまう。

 

 

 

 

何か思索に耽ったり、思考を整理している時の腕組みは好き。

そこから片手を外して、顎に手をやってるのなんかも良い。

ついでに前後に頭を揺すったりしてるのも良い。

 

 

支配的な遺伝子による利害関係を忘れて、

自分の中のイメージに耳を傾け、

指からこぼれていくのを惜しむように丁寧に掬い上げ、

何とか残ったものが外に出ていく際にも、

なるべくなるべくそのままの姿でいられるような、

それでいて、自分以外の人にも分かってもらえるような、

ぴったりの形を与えようと模索している姿。

 

そうして横に並んで、

目を覗き込むことが無くとも、

相手の深いところに、また、自分の深いところに、

息の続く限り潜っていられたらと思う。